株式会社エコニクス
環境技術部 主任研究員 今井 佳昭
『環境』といった言葉について少し哲学してみたいと思います。
今では何かにつけ使用頻度が高くなっていると思われるこの言葉。果たして共通の意味を理解した上で使っているのでしょうか。
イメージして見て下さい。環境とは『環』(めぐる。めぐらす。)と『境』(場所。身のおきどころ。知覚の対象となる世界。)といった意味を持つ漢字が組み合わさった言葉であるということを。そして、理解してみて下さい。広辞苑では「めぐり囲む区域。特に人間または生物を取り巻き、それと相互作用を及ぼし合うものとして見た外界。」と解釈されている言葉であるということを。
『わのさかい』⇒『和の栄』⇒多種雑多との共生
少し前になりますが、現日本財団の故笹川良一氏が「人類みな兄弟」と言われていましたが、今の時代『環境』とは「生きたものみな兄弟」と唱えて然りなのではないでしょうか。
今ある環境問題は、人類中心の営みが、相互作用を及ぼし合った結果(例えばフロンガスによるオゾン層ホールの形成等)生み出された究極の外界に対する問題(地球環境問題)で、その歩は人類が火を使うことを身につけ、地球上の生態系の頂点に君臨した時から始まったと言っても過言ではないと思います。
あと100(孫あるいは曾孫の時代)この状況が継続されれば全世界の地理的条件が変化し、人類自体の生命危機も予測されています。
今を生きる人類の一人一人が母なる大地=地球を見据えた危機管理能力を向上させる必要があるのではないのでしょうか。「塵も積もれば山となる」一人一人の力は微力でも束になれば三本の矢の力を発揮すると思います。
1992年ブラジル リオ・デ・ジャネイロで開催された「環境と開発に関する国連会議」(通称:地球サミット)以来、私たち1人ひとりが地球人(地球市民)として環境問題に取り組むことが求められており、その気運も高まってきています。今こそ、その気運を真摯に受け取り行動を開始する時なのではないでしょうか。